高取正男・橋本峰雄,1968『宗教以前』
なんども読み返しながら、いまだにつかめないでいる。読み終えることができないともいう。たとえば、ここに、まえがきの冒頭を抜き書きしてみよう。
宗教は体験であって、たんに倫理からの要請ではない。信仰は主観的な信念に過ぎぬものではなく、客観的実在つまり絶対者とか超越者とかからの呼びかけによって成立する。しかし、たとえそのようなこの世の外の神や仏の声に答えるという形の信仰ではなくても、この世界と人生とをひとまとめにして、それに決定的全体的な態度をとらねばならぬとき、やはり人はある宗教的信仰の体験を持つのであろう。宗教はつねに人間存在の本質的なモメントである。
こうした表明を序文におけるような著者はいま、2010年代の言論界にはいない。あり得ない、時代錯誤である、もはや過去の遺物である……と言いたいのではない。むしろ、こう言うことができた時代(1960年代)の、少なくとも宗教を語る土台・前提・知の厚みをまぶしく感じる。
この書は、宗教以前という題にのっとって、民俗学が探求してきた、「忌み」「産土神」「先祖祭り」「墓制」という軸をたどることで、宗教と国家、宗教と科学を問おうとしている。
語る前提の「体験」たる、民俗文化が、まだその痕跡を、¥生きた形でとどめていた時代なのだ、昭和40年代は。そして、私が生まれた時代でもあり、平成生まれの大学生にとっては、どうにも想像が及ばぬところが多大であろう。
《宗教はつねに人間存在の本質的なモメントである》……この言葉が、若い学徒に通じるような道を、私は架橋したいと思う。つまづきながら、何度でも読み返しながら。